「4・5釜ヶ崎大弾圧と原発を考えるための覚え書き」

http://jfissures.wordpress.com/2011/04/14/notes-on-the-4-5-great-kamagasaki-oppression-and-nuclear-power-industry/ より。

4・5釜ヶ崎大弾圧と原発を考えるための覚え書き

原口剛

 2011年4月5日、近年例を見ない規模の大弾圧が、大阪の釜ヶ崎で起きた。大阪府警釜ヶ崎にかかわる5名を一斉に逮捕し、少なくとも14ヶ所へのガサ入れを行なったのだ(後日、さらに2名が逮捕された)。
 この弾圧の文脈は、2007年にさかのぼる。釜ヶ崎では、簡易宿所(ドヤ)や飯場を転々とする日雇労働者や、それにすら泊まるお金のない野宿生活者が、支援団体の施設などに住民票を置いていた。ところが大阪市釜ヶ崎解放会館など3つの建物に置いていた日雇労働者の住民票を、2007年にいっせいに消除した。ただでさえ基本的権利から排除された日雇労働者野宿生活者は、さらに住民票を失うことによって、選挙権の行使という権利すらも奪われることになった。この暴挙に抗議すべく、昨年2010年7月の衆議院選挙投票日には、釜ヶ崎地域内の投票所で人権侵害を訴える行動が取り組まれた。2011年4月5日、大阪府警は4月10日の地方選挙において抗議の声があがることをあらかじめ封殺するために、この抗議行動への参加者を弾圧したのである。
 この4・5釜ヶ崎大弾圧を、釜ヶ崎という特殊な地域の出来事として、切り離して考えてはならない。それは、3・11以降の原発をめぐる日本の状況に直結するものとして考えられなければならない。ここでは、3・11以降の状況と4・5釜ヶ崎大弾圧を結びつけて考えるために欠かせないと思われる点を、書き記しておきたい。

1.
釜ヶ崎や山谷といった寄せ場日雇労働者は、建設業をはじめとする産業労働にとって、欠くことのできない労働力であった。高速道路、高層ビル、ダムといったさまざまな建設物は、寄せ場日雇労働者の手によってこそ建設された。釜ヶ崎日雇労働者がいなければ、いったい誰が1970年の万国博覧会の会場を建設できただろうか?
しかし、日雇労働者がそのような労働を担ったという事実は、人びとに知られないまま忘れられていく。人びとの知らぬところで、人びとの意識にものぼらぬところで、寄せ場日雇労働者野宿生活者は、誰も携わりたくないような、もっとも危険で苛酷な労働を担わされてきた。そして彼らが担わされた労働のひとつが、ほかならぬ原発被爆労働だった。『野宿労働者の原発被曝労働の実態』http://san-ya.at.webry.info/201103/article_11.htmlには、東京・山谷の労働者の原発被爆労働実態の証言が記録されている。ここには、ろくな説明もないまま、わけもわからぬまま原発被爆労働に送り込まれ、身体を蝕まれ、仲間を失った労働者の生の声が綴られている。万国博覧会を開催するのに釜ヶ崎が必要不可欠であったのと同じように、原発という呪われた装置を維持するためには、寄せ場の労働者が、彼らの犠牲がどうしても必要だったのだ。
 そしていま、数多くの労働者がこの禍々しい労働に送り出されている。彼らが寄せ場から送り出されたのか、別のところから送り出されたのかはわからない。けれども確かにいえることは、いま原発被爆労働を強いられている労働者と、寄せ場日雇労働者は、似たような、ではなく、まったく同じ存在だということだ。釜ヶ崎日雇労働者はあしたには原発労働に送り出されるかもしれず、原発に送り出されている労働者はあしたには釜ヶ崎に住むかもしれない。釜ヶ崎に対する弾圧は、いま原発被爆労働を強いられている、あるいはこれから強いられようとしている、すべての労働者を弾圧するのに等しい行為である。

2.
4・5釜ヶ崎大弾圧の標的のひとつとなったのは、ドキュメンタリー・スペースであった。これは、権力がなにを恐れ、潰そうとしているのかを、端的に示している。それは、記録すること、表現すること、伝えることなのだ。
ここで思い起こされるのは、2008年6月に勃発した第24次暴動である。1990年代以降、釜ヶ崎労働市場は縮小を続け、釜ヶ崎は「労働者のまち」から「失業者のまち」へと変貌させられた。このなかで暴動の炎は、1992年の第23次暴動を最後に、もはや過去の伝説と化していたのだった。それゆえこの暴動は、釜ヶ崎にかかわるすべての人々を驚嘆させた。そしてなにより重要なことに、この暴動には多数の若者が参加していた。
この2008年暴動について、2009年の文章のなかで私はつぎのように書いた。「若者は、長年の闘争が刻み込まれた釜ヶ崎にこそ、自身の怒りを表明する場を見出したのだ。かつての日雇労働者と現代のプレカリアートが、ともに機動隊に対峙する姿は、まるで先輩が後輩に怒りの表現方法を伝授しているかのようであった。08年釜ヶ崎暴動が伝えるもっとも重要な教訓は、都市大阪には、抑圧された民衆の憤りが潜在的に、しかし確実にうごめいているということ、そして機会と場所さえ与えられれば、それはさまざまなかたちをとって爆発しうるということ、である。このとき怒りの表現は、釜ヶ崎のみならず、都市空間のあらゆるところで、予測不可能なかたちで爆発しうるだろう」。
おそらくドキュメンタリーは、怒りの表現方法を伝達し、さまざまな場所に伝播させるうえで、カギとなる役割を担っている。3・11以降の現在、原発をめぐって怒りの素地があまねく広がっている状況において、その役割はなおさら重大である。だからこそ、4・5釜ヶ崎大弾圧において、それはまっさきに弾圧の標的になった。私にはそう思えてならない。だとすれば、記録すること、表現すること、伝達することは、釜ヶ崎大弾圧そして原発に対する闘争の、おそらくは最前線に位置している。4・5釜ヶ崎大弾圧は、日雇労働者に対する弾圧であると同時に、記録や表現に携わるあらゆる者に対する弾圧でもあるのだ。

(補足)
1.釜ヶ崎とは、その数2万人とも3万人ともいわれる日雇労働者が住む地域である。釜ヶ崎には最大の時期には200軒以上の安価な宿(ドヤ)が並び立っており、日雇労働者はドヤを住みかとして生活してきた。このような場所は、東京の山谷、横浜の寿町、名古屋の笹島など、大都市には必ず存在しており、それらは総称して「寄せ場」と呼ばれている。
2.寄せ場は、決して自然発生的に生まれたのではない。それは、資本や国家が自身の必要のために生み出した産物なのである。1970年の大阪万博を成功させるために、政府は関連する建設工事に従事する若い単身労働者を全国からかき集めようとした。そして、使い勝手の良い安価な労働力を大量に確保するために、1960年代後半に釜ヶ崎日雇労働者のまちへと塗り替えた。こうして釜ヶ崎は、建設業をはじめとする諸産業の最下層部に日雇労働力を供給する地域として、資本によって活用されつづけてきた――そして彼ら日雇労働者を使い捨て、野宿生活へと、路上での死へと追いやってきた。
3.寄せ場は、国家や資本に対し声をあげるための舞台であり、抵抗を繰り広げるための拠点であった。そのもっとも重要な実践は、暴動である。1961年8月1日、車に轢かれた日雇労働者を警察が長時間放置したことをきっかけとして、釜ヶ崎の第一次暴動が発生した。以後、釜ヶ崎では大規模なものだけでも計24回の暴動が起こりつづけてきた。