ドキュメンタリーのために

9月8日、大阪地裁へ準備書面を提出しました!
拘留期間中、一時は裁判の断念も考えましたが、多くの皆様のおかげで無事裁判を継続することができました。皆様のご支援と温かい応援のメッセージ、カンパに対して感謝したいと思います。とりわけ、韓国の人々からの多くの励ましには勇気づけられ、また正直、驚いてもいます。それは、こんなにも日本と韓国の人々がインターネットを使って連帯し、お互いに「つながる」ことができるという驚きです。
私が不当「逮捕」されたのは、韓国強制併合100年目の8月22日のことでした。釜ヶ崎の夏祭りでのドキュメンタリー上映会や、済州島出身の在日コリアン女性の祈りの場である龍王宮の最後のクッ(シャーマニズム)の撮影を終えたばかりでした。その「龍王宮の記憶」(仮題)の編集準備の途上での突然の「逮捕」でした。前日、私は西成区済州島出身のYハルモニのライフヒストリーの聞き取りをしていました。1928年生まれ、82歳のYさんは、23歳の時に密航で大阪、西成区にやって来ました。終戦間際には日本の兵隊さんと一緒に土方仕事をしていたそうです。(それは沖縄戦のさなか本土決戦を済州島で防衛するための工事のこと)約7万人の日本軍そして済州島の人々が徴用され、本土防衛のために軍用道路や地下に大規模な要塞が建設されたのです。
Yさんは同郷の済州島の人と結婚しました。皮革関係の仕事をしながら苦労して4人の子どもを育てました。ご主人が亡くなったあと、読み書き(識字)学校へ行き、初めて『文字』を習ったのです。「人間は外でなあかん。仕事ばかりしてたらあかん。人間は外出て、読み書きして、人間は外でなあかん。」ふと、電話帳に書かれた電話番号が見えました。Yハルモニが書いた電話番号は龍王宮の壁に書かれた電話番号の数字とまったく同じ字体だったのです。それはまた、私のオモニの書く数字ともそっくりです。年金制度からも除外され、女であるがゆえに教育を受ける機会も奪われたYハルモニの封印された過去の記憶は、現在と過去とを行ったり来たりしながらも、なかなか語られることがなく伝える言葉と『文字』を持ちません。あまりにも、沈黙の時間が長すぎたのです。「龍王宮の記憶」とは、植民地時代における済州島出身の在日コリアン女性一世の歴史と語るべき『文字』を取り戻すことです。蜂起。討伐。虐殺。逃避。密航。離散。祖国の解放からまもなく済州島では、単独選挙に反対して武装蜂起が起こり、それに対しての弾圧で多くの人々が犠牲となったのです。そして、また在日社会においては、国語(くご)練習所(よんすじゃん)から始まった民族学校がGHQにより閉鎖命令が出され、それに対する闘い(阪神教育闘争)が起こったのです。済州島と在日は分断され、世代と世代を紡いでいく『国語』と『文字』は伝承されなくなってしまいました。
釜ヶ崎で沖縄ソバの屋台がつぶされ、龍王宮が自主撤去される中、大阪駅周辺の最後の再開発が大手のゼネコンを中心に進められようとしています。去年の暮から今年にかけて、私は大林組施工の阪急デパートの解体現場で日雇いで働いていました。そこでは、多くのフィリピンの研修生が働いていました。彼らは月6〜8万の給料で、日本人にバカにされながらも、屈託のない笑顔で働いていました。この解体現場で、私は本名から通名に突然名前を変えられたのです。その原因は本名を名乗っていたら「外国人就労届」を提出しなければならないという安直な誤解と偏見によるもので、永住権をもつ在日コリアンは当然として通名を名乗っているという予断と、同化を前提とする差別意識に起因しているものです。足場に登るとJRの線路と歩道橋がよく見えました。今年のはじめ、日本軍「慰安婦」問題の解決を求める水曜デモは、それらの記憶を無かったものとしようする人々の登場によって妨害されようとしました。私が今回、名前の件で大林組を訴えた動機です。
裁判所の帰りに、今回の裁判の被告である大林組の歴史館へ行きました。明治25年(1892)大林芳五郎が創業。大阪においては、1898年大阪市築港、1901年第五回内国勧業博覧会、1911年大阪電気軌道(現在の近鉄)生駒トンネル…明治維新後の日本の近代化に貢献し、短期間のうちに全国規模の総合建設業を確立すると説明されています。しかし、同時に当時の植民地であった朝鮮での鉄道建設工事において大倉組や鹿島組と並んで、莫大な利益を得たこと、当時の日本の土木建築業の近代化において朝鮮人労働者の移入が不可欠であった事実は何処にも書かれてはいません。日本の近代化と一体化した3世紀にわたる大林組の社史には、旧植民地での差別と抑圧の足跡は抹殺されているのです。差別と選別と格差と貧困を…(未解決の植民地清算と進行するグローバリズムのはざまで)横断する歴史的視点で捉えること必要性が今、求められています。その縦軸と横軸の交差するところへ、ドキュメンタリーのカメラは据えなければならないのです。
私が留置されていたところは、兵庫県警本部の外国人専用の留置場でした。監視カメラが設置された三畳あまりの部屋には、ナイジェリア人のUさんが2カ月も前から拘留されていました。Uさんは「お前、ウソばっかりや。お前なんか、日本にいらん。帰れ」とか言われ、罵倒されながらも取り調べを受けていました。それに比べて私の取り調べは、丁寧な言葉づかいで丁重なものでした。「何のために中崎町に事務所を借りたのですか?」「何故、中崎町に借りたのですか?」「誰かに言われて借りたのですか?」しかし、本来の逮捕容疑とは直接関係のない、何が知りたいのか見当もつかない質問が続きました。私は黙して語りませんでした。しかし、今はっきりと宣言したいと思います。
それは「ドキュメンタリーを作るため!」と…寸断された記憶と『文字』をつなぎ、分断された世代と世代をつなぎ、玄界灘を越えて「つながり」ぬくことができる『文字』=映像を作りたいからだと!中崎町ドキュメンタリースペース(NDS)とはそうして生まれたのだと!
記録者として致命的な映像記録(ハードディスク)の押収は、表現への弾圧であり、また運動への弾圧であることは間違えのない事実です。今後、このような弾圧が二度とあってはならないし、許してはなりません。
また、伊東さんや今回の裁判の日本人側の原告であるもうひとりのKの弾圧も許してはなりません。今後とも、反弾圧の声をあげていきましょう。
また、このブログを、日本と韓国の多くの自主的で独立したメディアアクティビストの連帯とさまざまな意見を通じて、継続して意見を交換していける「場」にしていきましょう。引き続きのご声援とご支援をよろしくお願いいたします。
2010年9月12日                      金稔万


追記
西成公園の伊東さんが沖縄をルーツにしていることを知ったのは、伊東さんが「逮捕」される直前でした。朝のセンターで会うと、いつも笑顔であいさつしてくれました。コーヒーを飲みましょうと言うと、安い紙カップ自動販売機へ案内してくれ、お礼にウリッハキョ(朝鮮学校)の缶バッチも頂きました。その伊東さんが大阪拘置所にこんなにも長期拘留されるとは…
同じく大阪拘置所から本名裁伴を闘っているもうひとりのKと共に即刻、釈放されることを望みます。